アントワーヌを追いかけて

あるいは「日曜哲学」へのいざない

悲しき玩具

昨日寝入りばなに、ぼくはあれこれ考え込んだ。おかしなことにいま思えばいったい何を考え込んだのか、それがまったくもって思い出せない。こういうことは前にもあった。文字がなぜ意味が通じるのか、人の頭の中にはどれほど濃い思念が詰まっているのか、手はなぜこんなにぐにゃぐにゃ動くのか、といったことを考え込んだりしたっけ。

フーコードゥルーズや、あるいはフェリックス・ガタリをきちんと読み込まないといけないのだけれど、ともあれそんなことを思ってしまうということはぼくも晴れて(?)「狂人」の仲間入りかもしれないとあれこれ考え込んだことを思い出す。将来、ぼくはきっと隔離されて遠く離れたところに閉じ込められて一生をむなしく終えると。

もちろんいまになって振り返ると、こんなアイデアはまさに「噴飯もの」であり「へそで茶を沸かす」レベルだ。だが、それでもぼくの「天然」で「アホ」なところはぬぐい去ることができず、時にそれが「几帳面さ」として働くこともあるが(だからぼくは英語でメモを書いたり、日記を書いたりできるのだろう)、生きづらさはいまも同じだ。

当たり前だが、人はあらかじめ「狂人」とみなされて生まれ落ちることはない。生きていくうちにその人の思想の偏りがどんどん社会の規範・道徳から外れてはみ出してしまって、ゆえに「狂気」としか呼びようがなくなったのだと思う。素人考えではあるけれど、これが正しいならぼくだってある意味では正気過ぎる人なのかもしれない、かな?

 

過去、ぼくは「むしろ」「反動的に」いかに自分が異常者であるかを誇示・自慢しようと思いきったことがあった。人前で平気で下ネタを語り、猥談(エロ話)を大っぴらに開陳する。それでずいぶん嫌われたりもしたのだけれど、嫌われてもいいからとにかく注目されたいとばかり思っていたぼくは実に「ご満悦」だった。アホなことをした。

でも、そんなことをしないといけないほど(きれいな言い方をしてしまうが)ぼくの頭は悲しくもおかしな・奇矯なアイデアに満ちていてそのはけ口を求めていたとも言える。「ぼくは『狂人』なのだ、ゆえに『入院』だ」と考えることと「ぼくは『狂人』だ、ゆえに『嫌われ』よう」と考えることは同根・同種の思い込みから成り立つ。

この歳まで生きて、そして知ったことがある。それは、一方ではぼくはまさに「かけがえのない」人間であるということ。ここに1人しかいないのだから、大事にいたわらないといけない。そして、矛盾するけれどその一方でぼくの思い込みも「狂気(あえてこう言う)」も実はどこか「ありふれた」、「先人の系譜」に属しうるとも言える。

つまり、すでにぼくと同じことを考えている人がいて(あるいはそんな人が過去にかつて何かを残していて)それを知らないだけだということ。その可能性に思い至り、それがぼくの狂気の暴走・氾濫を食い止めているとも言える……と書くと手前味噌かもしれない。でも、思えばぼくの前にはすでに谷崎潤一郎が偉大なマゾヒストとして居る。