アントワーヌを追いかけて

あるいは「日曜哲学」へのいざない

Don't Look Back In Anger

まだ20代の若い頃、ぼくにはさまざまな「仮想敵」がいた。わかりやすく言えば血気盛んな青年でいろんな物事に常に論争をふっかける喧嘩っ早い、はた迷惑な鼻つまみ者だった。具体的に言えばぼくは左翼(というか、俗に言うところの「パヨク」)だったので「ナショナリズム」「愛国心」もそんなぼくの敵として位置づけられていたのだ。

でもいま思えば、どうしてそんなふうに「国」(もっと言えば「日本的なるもの」)を敵だと勝手に思い込んで、読みかじったベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』あたりをソースに(どこまで理解できていたかはなはだ怪しいものだが)「日本」を非難していたのか、まったくわからない。何にせよぼくはそんな偏狭な狂人だった。

いまになって素直に、批判を歓迎・期待する気持ちを保ちつつ語るならいまなおぼくの中に左翼的・リベラルを気取りたい気持ちはある。だが同時にぼくの中にはどうしたって「日本的なるもの」を通して生まれ育ったという経験が血となり肉となって、このぼくを形作っているのがわかる。英語を学んだからといってそれは簡単には消えない。

そんなことを考えるようになり、「原点回帰」というのか「日本的なるもの」を自分なりに見つめ直すことも大事なのかなと最近では思うようになった。たとえば、個人的な嗜好では夏目漱石谷崎潤一郎川端康成古井由吉村上春樹多和田葉子の日本語に心が動く。このぼくの本能に内在する「血」を見つめ直すことを恐れたくないのだ。

 

そうして歴史を見つめ直し、「血」を見つめ直すことはでも、注意深く為されなければならない。というのは、過去を見る視点が美化に走ってしまうあまり、「いま」の成果を否定する可能性もありうるからだ(わかりやすく言えば、たとえば「なぜ過去の文学史を振り返って女性の姿があまりにも少ない?」と疑問を持たなければならない)。

過去を振り返り、そこから謙虚・虚心に学び続ける。そうして「いま・ここ」にいる自分自身へと学んだことをフィードバックしていく。思えば本は基本的に過去に書かれたもの。過去からの遺産だ(「5年後に書かれた本がいま手元にある」なんてことはありえない)。そうして過去と対話することでこのぼく自身は鍛えられていく。

それこそが、たとえば中島岳志や彼の師匠にあたる西部邁が説いていた「伝統」「保守主義」の真髄なのかなと最近では思うようになった。その意味ではぼくは、子ども子どもした甘えん坊だったくせにいっぱしの口を叩く大人になりつつあるとも言えるわけだ。なら、これから先はもっと年を取って円熟することもできるのだろうか。

それはわからないけれど、でもともあれ注意深く「ぼくが見つめている『日本』は、たとえばDiscordで出会う他人が語る『日本』と同じものだろうか」と考えながらぼくなりに歳を重ね、考察を練っていきたいと最近では考えるようにもなった。その頭を通してなら多少は『想像の共同体』がわかるようになるのだろうか、と淡く期待を込めて。