アントワーヌを追いかけて

あるいは「日曜哲学」へのいざない

わたくしのビートルズ

ぼくが毎週木曜日に参加しているあるミーティングにおいて、ぼく自身がプレゼンテーションを行う番が回ってきた。引き受けたのはいいのだけど、いったい何を話すべきかあれこれ考えても妙案を思い浮かばない。ふとビートルズの曲名にあやかって「エイト・デイズ・ア・ウィーク」、つまり自分の1週間を紹介してみたくなった。

それでその方向でアイデアを練っていて――ここからが本題なのだけれど――ふと、まったく関係なく「そう言えば、自分がビートルズの曲を最初に聴いたと言えるのはいつだろう」とも思い始めた。もちろんぼくが子どもの頃すでにビートルズは全世界的に有名なバンドで、したがって彼らの曲はお茶の間にも流れていたのを思い出せる。

しかし、ぼくがほんとうに彼らの曲に衝撃を受けたと思ったのは高校生の頃のことだろうか。音楽の授業の際に先生が『サージェント・ペパーズ』から数曲を流したのだ。それがぼくにとってインパクトが大きくて、それまで「可もなく不可もなし」だったビートルズの印象が急にせり上がってくるのを感じた。爾来、彼らは好きなバンドだ。

でも、不思議な話だ。こうして思い出話を振り返ったり、あるいは体感できるわけもない「ぼくが生まれる前のバンドの曲」を聴いたりしていると「過去」がまざまざと「いま」のぼくたちの生活を支えていることに気付かされる。ぼくはある意味、「過去」の遺産に抱かれて生きているのだ。その遺産に縛られてしまう必要はないにせよ。

 

ビートルズの偉大さとはどこにあるのだろう、と思う。彼らはリアルタイムで巨大なバンドであったことならぼくだって知っている。日本においても一大旋風・ブームを巻き起こしたということも。それを思うに、あらためて「自分がいる『いま・ここ』に至る歴史や事実」について思いを馳せてしまう。それが生きるということかもしれない。

ビートルズだけではなく、ぼくが会ったことはおろか目撃したこともない伝説級のレジェンドについても思いを馳せる。ジャン=リュック・ゴダール大江健三郎中上健次坂本龍一。そうしたレジェンドたちにあこがれた日々を思い出す。でも、いまはいたずらにあこがれる日々を断ち切って自分だけの英語学習の修練に明け暮れる。

過去に初めて聴いたビートルズの曲がもたらした意味。それはでも、こうして何かを書いている自分自身の中に確実に血肉化されて在る。過去は静謐な博物館の標本・見本のように頭蓋骨の中に閉じ込められてあるのではなく、その過去を肯定的・批判的に読み解くことであたらしい角度に光を当て直せる。そんなことを思う。

そして、眼前に広がる「いま」についても思いを馳せる。サルトル『嘔吐』におけるロカンタンの冒険は続く……もっとも、いまでぼくは48歳なのだけれどここからどう成長のグラフを描いていったらいいのかまったくわからない。ぼくにできることはそんなグラフを無視してひんしゅくを買うことかなと思う。おかしな48歳だけれども。