アントワーヌを追いかけて

あるいは「日曜哲学」へのいざない

偶然の音楽

いまこれを書いているのは午後10時51分。外は雨が降っているようで、そう思うとふと「雨のよく降るこの星では……」というフレーズが思い出されたのでそのままそれに導かれて、小沢健二の『犬は吠えるがキャラバンは進む』を聴き直している。何度聴いてもしみじみと沁みるアルバムだと思う。30年前に出会って以来、裏切られない1枚だ。

あたりまえのことを書くけれど、ぼくが生まれる以前にも世界はここに存在していた。そして、ぼくが死んでからも世界はあり続けるはずだ……保坂和志『〈私〉という演算』を読んでみたせいか、そんなことに思いが及ぶ。ぼくを超えたところにある世界の広がり・深みに対してぼくはもっと謙虚・誠実でなければならないのではないか。

と書いてみて、ふと小沢健二のことをいま一度思い返す。小沢健二はこのアルバムで「神様を信じる強さを僕に」と歌う。ぼくはこのアルバムを聴いていて、ここでこの言葉がいつも「刺さる」のを感じる。普通なら(というか、昔のぼくなら)「神様を信じる」のは「強さ」だろうかと疑問に思うところだ。でも、いまならわかる気がする。

何か崇高なもの・巨大なものに自分自身を預けて委ねる。それは、生半可な覚悟ではできないことだろう。いまは「自己責任」「自力本願」の空気が強い印象をぼくは受けるが、この世には自分自身を越えた確かな何かが存在し、それにつながることによってこそ自分自身はラクになれる。あるいは、そうしたつながりによってこそ成長できる。

 

過去、そんなことがわからなかった頃のことを思い出す。ぼくは独りぼっちで、そして(いま思うとほんとうにつらい、茨のような日々を生きていたとは言え)甘えてはいけないと言い聞かせて生きていた。でも、職場でも私生活でも理解者にめぐまれず、結局のところ酒に逃げるしかなかった。思ったことはただ「死にたい」という願いだけ。

そんなぼくがどうして酒を止められて、そしていまのグループホーム自助グループ英会話教室やDiscordやその他のソーシャルメディアとのつながりを得られたのだろう……結局これは「運が良かったから」ということで片付いてしまうかもしれない。だからなのか、いまでもぼくはオカルト的な「運」「偶然」を頼る生き方を手放せない。

「運」「偶然」ということで言えば、ぼくがこうしてここに生まれ落ちた(この星・この時代・この国になどなど)のもそうした不確定性のたまもの。ぼくがいま生きているのも不思議が重なり合ってのことで、それは科学を極めて合理的に探究したとしても「でも、なぜそれがよりによって『このぼく』に?」という問いに帰結してしまう。

もう1度小沢健二を聴く。「神様を信じる強さを僕に」というフレーズから「生きることをあきらめてしまわぬように」とつながるその連なりに、ぼく自身の記憶や思いを重ね合わせる。これからもぼくはこのアルバムを聴き続けるのだろう。それを思うと、このアルバムと出会ったこともまた「他力」の仕事だったのかなと思わされる。