アントワーヌを追いかけて

あるいは「日曜哲学」へのいざない

ワイルド・サイドを歩け

ぼくの人生を振り返ってみると、決して順風満帆というわけではない。子どもの頃は友だちを作ることもできず本の中に閉じこもってばかりで、そんな孤独な生活を大学まで送ったあと就職でつまづいてから本格的に酒に溺れる生活が始まり、それは40まで続く。いまもぼくは独身でロマンスの経験もない。まあ、そういう人生もありうるのだ。

だからなのか、ぼくは「ドロップアウトのえらいひと」的な挫折と辛酸に満ちた人生を過ごした人の語る含蓄深い語りに弱い。文学作品だとそれこそ村上春樹を筆頭に、好みで言えば松浦寿輝堀江敏幸保坂和志や(保坂とは犬猿の仲らしいが)車谷長吉チャールズ・ブコウスキーといった作家たちの本を少しばかり読みあさってきた。

そういった作家たちの本を読んできた悪影響というのもあることは確かで、いまもなおぼくはどこかで(ぼく自身は「ドロップアウトのえらいひと」なタマではありえないと自覚しているつもりなのに)「真面目に働きたくない」「頑張りたくない」「汗をかきたくない」と思って生きるクセがついている。斜に構えて、眠そうに生きるというか。

極論を言えばそうやってナナメに生きること、不真面目な生き方を真面目に追及することをこそ(と書くとわけがわからなくなってしまうが)ぼくは文学から学んだのかもしれない。いまさら真っ当な勤め人、順風満帆なキャリアにも戻れっこないのでこのまま生きていくのがぼくのミッションなのかなあ、と呑気に構えつつ生きている。

 

そんなミッションが見えてきたのは20代・30代の頃、つまり若い頃ではなかった。いや本来ならそういった時期にこそ何か打ち込めるものを見つけて、そして邁進すべきだっただろう。でもぼくは臆病だったので、ひたすら酒に溺れて自分を見失っていたのだった。何をやりたいのか、何が好きなのか、まったく見えていなかった。

答えはもっとシンプルなはずだったのだ。いまになってみればそれがわかる。いま、哲学やそれこそ文学を自分なりに読みかじり、そして得てきたものをつたなくもこうして書きつづっている。あるいは、英語を学び始めて「沼」を見出したことからその「沼」を追求しようとも考えている。こうしたことはでも、もっと早く見つかってよかった。

なぜ見つからなかったのか。それはひとえに、ぼくの目が曇っていたからだ。好きなことをあからさまにしたり、あるいは自分の中ではっきりさせたりすることをぼくの自意識が邪魔して「できっこない」「そんなマジになるのは恥ずかしい」と要らないブレーキをかけてしまっていたからなのだろう。アクセルを踏むべきだったのに。

ああ、ムダに過ごした若き日……でもその若き日の苦悩・苦労が自分を育てたのかと思うと、その意味では味わい深くもある。大量に呑んだ酒はぼくの授業料だったのかな、と。そして読みあさった本から学んだことがいまに活きている。ぼくもある意味、「ドロップアウトのえらいひと」に近づけたんだろうかと思う。中島らも的な偉人に。