アントワーヌを追いかけて

あるいは「日曜哲学」へのいざない

ハイウェイ

「大人になるってどういうことだろう?」と、自分に向かって問いかけてみる。でも、答えは出てこない。ということは、ぼくは「大人」の定義を言えないということかと思う。でも、「じゃ、ぼくは『大人』でなくてもいいんだ」と思おうとするとなんだか「いいのかなあ? そんなことで」という罪悪感にさいなまれる。実におかしな話だ。

ぼくは発達障害者であり、それゆえに子どもの頃から教師やクラスメイトから「そんなことでどうする」「真面目にやれ」と言われることもあった(おかしなことに、親からは特に口うるさく言われなかった)。ぼく自身、こんなぼくのことを認められず「自分はおかしな、狂った人間なのだ」と自意識過剰な悩みを抱えて右往左往したりした。

ぼくは1975年に生まれ、1989年に宮崎勤が起こしたあの事件をマスメディアの報道で知った。ぼく自身の中にも彼に似た特性があったので(あえて雑駁に言えば「オタク趣味」「コレクター気質」となろうか)、はしたなくも「自分の嗜好(具体的に言えば『アニメの美少女に惹かれること』など)は異常だ」と思い込み、真剣に悩んだ。

時は流れ……いまやそんな「アニメの美少女」のイメージはインターネット(オンライン)や街角(リアル)にあふれ返っていて、ぼく自身もなんだかんだあって宮崎勤がたどったような陥穽をなんとか回避していまに至れているみたいだ(そして、吉岡忍『M/世界の、憂鬱な先端』で宮崎の苦悩を知り、あらためてぼくはアホだと思った)。

 

そしていま、ぼくの部屋にある佐藤良明『ラバーソウルの弾みかた』のことを思い出す。佐藤良明はもちろん宮崎勤とは世代は違うけれど、佐藤自身もこの本の中で過去に「ピーターパン・シンドローム」(つまり「大人になりたくない」という思い)を抱えて、それに甘んじることもできず真剣に・真摯に苦悩したことを吐露している。

「大人」になる、なれない、なりたくない……なんだかサリンジャーキャッチャー・イン・ザ・ライライ麦畑でつかまえて)』なんかにも通じる苦悩だ。「定番」の苦悩とさえ言えるのかもしれない。そんな苦悩を抱えつつ佐藤良明は研究の道に進み、サリンジャーは傑作を記した。苦悩は決してムダに終わるとは限らない、ということか。

あるいは、子どものままの自分自身の問いやその問いを生み出す感性・感受性を保ったまま成熟・円熟することを選んだ人だっている。ぼくが知るさまざまな哲学者(永井均中島義道)といった人たちがそうかなと思う。世は多様性の時代。大人になるといってもいろんな回路がありうる。なら、ぼくがいま歩んでいる道はどんな道なのだろう。

20代・30代を思い出す。京アニ事件の青葉真司ではないけれど、ぼくも村上春樹の小説に人生を狂わされて生きた時期があったっけ。いや、どう狂わされようがそれでも「これが私の生きる道」という矜持だけは持ち続けたいと、40代になってようやく割り切る努力を始めていまに至る。人生、そう考えてみれば実に豊饒なものなのかなとも思う。