アントワーヌを追いかけて

あるいは「日曜哲学」へのいざない

僕はここにいる

単なる子どもじみた問いでしかないかなとも思うのだけれど、それでもぼくはときおり「ぼくって何だろう」と思ってしまう。この「ぼく」とは何者・何物なのか。問えば問うほど、ぼくは「ぼく」のことがわからなくなって途方に暮れる。ぼくがぼくであることを保証するアイデンティティとは何か、ぼくがこうして考える「ぼく」とは何か。

ぼくはしょせんはしがない「日曜哲学」を謳うトーシロの読者でしかない。なので、哲学を体系的に勉強したわけではまったくもってなくて、我流でサルトル『嘔吐』を読み実存哲学のイロハをかじるのが関の山だ。でも、そんなぼくなりに思うのはこうした「ぼくって何」という問いこそがぼくがこれから極めるアポリアかなということだ。

どうアプローチできるだろう。たとえば、ぼくはこうした問いを言語で考える。言葉によって概念を弄び、そこから論旨を組み立てあれこれ解明していく。別の言い方をすればぼくは言語という体系から抜けられない。それは柄谷行人『内省と遡行』やウィトゲンシュタイン論理哲学論考』が教えるとおりだ。意外と「ぼく」は不自由な存在だ。

あるいは、ぼくはこうして真面目にあれこれ書いていてもしょせんは肉欲・本能にコントロールされた存在であるという側面を否定できない。ひらたく言えば、ぼくだって汗をかくし心地よさをも感じる。その身体性を無視して、頭でっかちに理屈だけをこねくり回すことはどうしたって空理空論にしかたどり着かない。それもまた謎の1つだ。

 

ぼくとは何者・何物なのか。そんなことを考えて、昔はずいぶんぼくの「内面」「内側」ばかりを見つめたことがある。自分史・回想録みたいに自分が経験してきたことを整理して、そこから自分が何者であったのかを整理してみたいと思ったのだった。でもいまはもう少し違うことを考えている。ぼくの在り処を求めて外を見てみたい、と。

どういうことかというと、たとえば(エッチな話で申し訳ないが)外に出てそこでステキな女性を見かけた時にぼくの心は反応する。あるいは、美味しいものを食べた時にぼくの気持ちは満足する。そんな感じで、ぼくの心・精神は単体としてここにあるのではなく他者・他の物体との関わりにおいて成り立っていると考えてみたいのだった。

そう捉えていけば、ぼくとは決して孤立した、石のように堅い内面・精神を持ち合わせた人間存在ではなくステキな女性や美味しい料理(あるいはいい音楽やおいしい水)といったものに即座に・鋭敏に反応しいくらでもその様相を変化させる、フレキシブルなものであることがわかるだろう。そんなふうに外へ開かれた存在。それが「ぼく」だ。

ということが真実だとしたら、ぼくとはもっと開放されてしかるべき存在なのだ。ここにいる自分のアイデンティティ(自分が首尾一貫していること)をあまりクソ真面目に重視せず、どのようにでも変わってしまうはかない・柔軟な存在でありうること。それを認め、変わることを恐れないこと。どのように変わろうとも「ぼくはぼく」だ。