アントワーヌを追いかけて

あるいは「日曜哲学」へのいざない

あなたがここにいてほしい

今日は遅番勤務の日なので、朝は時間が空くかもしれない。何か本を読むことを考え、薄い本をカバンに忍ばせることにする。三木那由他『言葉の展望台』をまた読み返すか、それとも多和田葉子『言葉と歩く日記』にするか……と考えていて、ふと両者に「言葉」という言葉がタイトルとして含まれていることに気づいてしまう。

もちろんこれは今朝、「たまたま」そんな似たようなテーマの本を思いついたというそれだけのことだ。だけどその符合から、ぼくはそうやって「言葉」についてあれこれこれまでも自分なりに・徒手空拳で考えてきたのだということを思い出す。ある時はウィトゲンシュタインをかじったりして、コミュニケーションについて考えてきたのだと。

ヘンな話だ。過去、ぼくはそんなふうに言葉についてわざわざ考えることにある種迂遠さ(別の言い方をすれば「もったいぶった態度」)を感じてきたのではなかったか。こうして書く言葉があなたに通じて、そこに根拠があるかないかなんてわざわざ問い詰めなくても何ら問題はない。なまじ厳密さを追い求めるからドツボにはまるのだ。

でも、「いま」ぼくはそんなふうにして考え抜くこと・問い詰めることをやめられない。「言葉がなぜ通じるのかを言葉を使って問う」というのも妙な話なのだけれど、ともあれぼくはそうしたことがらについていつしか考え始める腹をくくって、そして哲学や英語を学んだりし始めてきた。これからもこういうことを続けるのだろうと思う。

 

あるいは、ぼくがこんなふうに言葉についてあれこれ考えることの原因・モチベーションはたぶんぼくが(49にもなって「キモい」とも思うけど)「寂しがり屋」の「ロマンチスト」だからなのかなとも思う。それこそウィトゲンシュタインを引くまでもなく、言葉というものはどうしたってその言葉が宛てられる誰かがいることを前提とする。

つまり、「あなた」がそこにいるからぼくがこうして書いていく言葉は意味を持つのだ、ということになるだろうか。ぼくがぼくだけに書く言葉で済むなら落書きでもなんでもいいわけで、「あなた」とシェアできる何かを表現しようとするとそれは公共で了解できるコード・要素を備えた言葉を用いることになってしまう。それでいい。

ぼくは子どもの頃、発達障害ということもあってつらい思いをしたのでそれゆえに「いまなお」友だちを作りたいとか、もっとひどくなると誰かと肌を合わせたいとかそんな欲望・依存心にさいなまれることを告白する。ぼく自身のことをもっとわかってほしいと思い、あまつさえこのぼくを押し付けがましく理解させたいとも思うこともある。

それはある意味では「承認欲求」を丸出しにするということで、ひどく恥ずかしいことだ……という見方もわかる。わかるのだけれど、でも人は1人ぼっちなまま「完全体」を気取ることもできないという理屈の側にも立ちたい。そうしたどっちつかずな状態の「あいだ」をさまよいつつ、今日もぼくはそうした言葉に関する本を読んで学ぶ。