アントワーヌを追いかけて

あるいは「日曜哲学」へのいざない

小さな「確実性の問題」

自分自身を作り上げる嗜好(テイスト)とは何だろう……いま、ぼくはピーター・ガブリエルのアルバム『i/o』を聴きながらこの文を書いている。実を言うとピーター・ガブリエルを聴くようになったのはそんなに昔からではなく、はっきり覚えていないのだけど40代を過ぎてから。その年頃から彼の曲が「沁みる」ようになってきたのだった。

過去の自分についてそうやって振り返り……そしてまったくいまと違うことをやったり考えたりしていたことを思い出す。具体的に言えば、20代そこそこの頃のぼくはいまとは違って柄谷行人なんて目もくれず(「読んでもぼくなんかにわかるわけがない」と思い込んで敬遠していたのだった)、ただひたすら酒に溺れて時間を潰していたっけ。

「いま・ここ」にいる自分は過去の自分の延長線上にある。過去に為してきたことが「いま・ここ」の自分を作る。たとえば20代・30代、せっせとぼくは作家を目指して村上春樹金井美恵子保坂和志を読み込んで自分なりに「文学修業」してきたつもりだった。そうして読み込んできた本たちはいまの自分の価値観を作っているはずだ。

でも、そんな自分を裏切ってしまうこともある。たとえば、いままで「食わず嫌い」だった本を読んでみようか、なんて。過去、若かった頃のぼくはピーター・ガブリエル柄谷行人は「食わず嫌い」だった。でも、どこかでパクっと食べてみて美味しかったから味わうようになったのだった。誰にでもあることだろうけれど、思えば不思議だ。

 

いま、こうして文を書いていてぼくの中でも考えがいろいろ湧き出て、そのアイデアに突き動かされてコロコロ書きたいことが変わっていくのがわかる。いまだって吉田健一について考えたりニーチェについて考えたりしつつ、「ああでもないこうでもない」とぼくなりに苦吟しながら考えたことを書きなぐっている。タイプし、それを読む。

自分で書いたものを読み返し、そしてそこに書きつけられた過去の文から真っ先に刺激を受ける。難しく言えば「フィードバック」ということになる。そうして得た刺激がまさにこの「いま・ここ」の自分を変えていく。その自分は次の瞬間何を考えているだろう。わからないけれど、そうして変わりゆくことは可能性ではなかろうかとも思う。

いや、時にはそうして強引に自分自身を変えられ、傷つけられてしまうことはトラウマ(心的外傷)にもなる。身近な例では「ミスをして上司に叱責された」ということが思い浮かぶ。でも、そうして変わってしまう自分、摩擦によって磨かれていく自分を恐れてはいけないのだろうとも思う。原石が宝石になるように、1人の人として完成する。

今日はどうしようか……何度読んでも理解できなかった柄谷行人『内省と遡行』をまたかじってみようか。そうして読むことで得られたひらめき・着想はいったいぼくに何を教えるだろう。わからない。でも、自分に向かって『500ページの夢の束』という映画のセリフを言い聞かせる。「未知は克服するためにある」のだ、と。