アントワーヌを追いかけて

あるいは「日曜哲学」へのいざない

日曜哲学宣言

いったい自分は何を考えているんだろう? ふと自分自身にそう問いかけてみる。こうしたことを自分に問いかけるのはそうめずらしいことではない。なんだかんだでぼくはいまもX(元Twitter)やFacebookを使っているのだけれど、そこでこうした問いに答えて「思っていること」「自分の見解」を書きつける機会をぼくは得られている。

でも、その「思っていること」はほんとうにぼくが「思っていること」なんだろうか……なんだか禅問答みたいだけど、たとえば(3割程度も理解できていないにせよ)テオドール・アドルノ『ミニマ・モラリア』をぼくなりにかじっていると、アドルノのようなリアリストは「それは『思わされていること』かもしれないよ」と示唆している。

あるいは、ぼくにとって端的に「カンフル剤(劇薬)」である1冊の坂本龍一後藤繁雄『skmt 坂本龍一とは誰か』を読んでいるとそこに坂本が自分自身について、自分が明日どう考えているかわからないアモルファスな存在であることを語っている。ゆえにそうした「一貫性」から解放されたい、とも。その意見もぼくにとっては刺激的だ。

両者をつなげると、「ぼくが(こうして)考えていること」は「ぼく固有のもの」というより「どこかから授けられたもの」でありうること、あるいは「どこかへ逃げていくかもしれないもの」ということかもしれない。どちらにせよ、ぼくにはコントロールできないことであって、ならばその謎めいたぼく自身をどうしたらいいんだろうか。

 

わからない。これに関してはこれからもヒマを見つけてはネチネチと考えていくしかないのだろう。これまでもぼくはこんなことをネチネチ考えてきた。その成果をこれまでぼくはズボンのポケットに入れているメモパッドに書きつけてきたのだけれど、昨日ふと思いつきで「こうしたことをもっとブログでも書き残せないか」と思い始めた。

こうしたことがらをどう名付けたらいいんだろうかと思い、これもまたネチネチ考える。そして、「日曜哲学」という言葉を思いついた。「日曜大工」、つまり週末の空いた時間に大工仕事に勤しむ人にあやかって「日曜哲学」という、あくまでぼくなりに(「お遊戯」の域を出ないにしろ)楽しむ「哲学的営為」を始めようか、と。

もちろん、「こんなことをやっていったい何になるんだろう」とさすがに(ノーテンキなぼくとて)思わなくもない。でも、それでも「まあ、メモパッドの中に閉じ込めておくのももったいないかな」とも思い始めたのだった。なぜ坂本龍一の曲の中に封じ込められたメロディがぼくの感情・気分に訴えかけるのか。それだって「日曜哲学」だ。

考えついたのはいいけれど、今日は月曜日なのだった。なのでとりあえず次の日曜日に時間と気力があれば、さしあたっていまこうして書きなぐっているアイデアについて「振り返る」ことを始めたいなと思う。自分でも「コントロールできない」「謎めいたぼく自身」はいったい次の瞬間何を考えつくのか。日曜日にそれを考察できる、かな?