アントワーヌを追いかけて

あるいは「日曜哲学」へのいざない

World In My Eyes

ひさびさに手に取った永井玲衣『水中の哲学者たち』を読み返し、そこにおいて著者の永井玲衣が「いつからか、世界をよく見れるひとになりたいと思うようになった」と書いているのに気づき、それに不意打ちを喰らったような思いを感じる。この本は好きな1冊なのだけれど、ここを読み飛ばすとは自分も迂闊だと思ってしまったからだ。

「世界をよく見れるひと」ということで言えば、ぼくにとっては永井のみならず他にもさまざまな哲学者や文学者が思い出される。たとえば、今日読んだサルトルの『嘔吐』における主人公ロカンタンの筆致はそのままあたかも彼が「カメラになりきったかのような」描写や認識力においてきわだったもののようにぼくには思われる。

ロカンタン(つまりサルトル)だけではなく、あくまで「私見」の域を出ないものであることをことわりつつ書くならぼくは哲学者ではウィトゲンシュタインを挙げてしまう。文学者なら豊饒な自身のチャンネルを持って世界を眺めることができた数々の書き手が思い出される。津原泰水ル・クレジオ村上春樹古井由吉といった人たちだ。

ひるがえって、ぼくは世界をどれだけよく見られているだろう。たとえば、いまぼくが眼前にあるものをぼくは(サルトルプルーストフローベールといった先達に倣って)どこまで認識し文章に起こせるだろう。いま聞こえているのはR.E.M.の曲で、いま見ているものはただのいつものグループホームの自室だ。これでは何も見ていない。


……と書いて、違うのではないかとも思い始めた。ぼくは目を凝らして「見る」必要はあるのかもしれない。それこそ(いま思い出したのだけれど)ぼくが愛読してきたリルケ『マルテの手記』の主人公マルテが試みたように。でもその一方で、ぼくならぼくが「見てしまう」ことだってあるのではないかと思えてきた。

「見てしまう」こと。たとえば、ぼくは図書館に行くのが好きなのだけれどぼくは本棚をデタラメに眺めることがある。そこでふと「遭遇」する本から思わぬ気づきを得られることがあるからだ。たとえば小林秀雄『学生との対話』や、それこそ先に書いた永井玲衣の本だってそうした「遭遇」を通してめぐり合った宝物のような本なのだった。

「遭遇」を通して、たとえばふと目に飛び込んできたもの、ふと視界の隅で捕らえられたものに対して「いったいどうしてそれを気にしてしまったのか」「なぜそんなものが気になってしまうのか」を問うことはムダではないと信じたい。そう思い、ぼくはまたたわむれに部屋を見渡す。いまのところぼくのアンテナに引っかかるものはない。

「見る」こと、つまり意識的に何かに「眼差し」を向けること。同時に「見てしまう」ことに対して敏感であること。いったい自分がその対象から何を考え、何を思っているのか見極めようと注力・努力すること。そうすることでぼくも永井玲衣が語るような「水中の哲学者たち」の仲間入りを果たすことができるのかもしれない。先は長い。