アントワーヌを追いかけて

あるいは「日曜哲学」へのいざない

犬は吠えるがキャラバンは進む

ぼくは十代の頃は、哲学書と名付けられた・名高かった本を熱心に読みふけった記憶は実はまったくもってなくて、むしろ文学書ばかり読んでいたのだった。その筆頭がこれまでさんざん書いてきた村上春樹で、あとは金井美恵子を読んだり柴田元幸が翻訳した書き手のものをかじってみたりといった具合。柄谷行人浅田彰には至らなかった。

当時はぼくはおそろしく自尊感情が低かったので(つまり「自分に自信を持てない」子だったので)、「いやいや、ニーチェハイデッガーなんて(わかるわけがありません)」と謙虚にも思っていたのだった。まあ当時のぼくが「超人」「永遠回帰」なんて概念に出くわしていたらエラいことになってたと思うので、結果的にはよかったのだ。

そんなぼくの導きの石になったのは永井均中島義道といった人たちの平易な新書で、興味本位で読んでみて「自分の考え方はこうした『哲学』と相性がいいのかな」とも思い始めたのだった。が、それであってもそこからいきなり『存在と時間』や『ツァラトゥストラかく語りき』に行くにはハードルも高く、だから手が伸びなかった。

それが変わったのは40代になって、ある方に「あなたの考え方は哲学的だ」と褒められたことがきっかけだった。そこから少しずつ、ぼくはウィトゲンシュタイン論理哲学論考』などをかじり始めるようになる。ぼくの頭のレベルが変化したというのは考えにくいので(いまでも平気でバカである)、たぶん自信をつけられてきたのだろう。

 

そして、いまではぼくは(ドイツ語はさっぱりできないので日本語ででしか読めていないにせよ)ハイデッガーニーチェ』と格闘したり、あるいは田中小実昌保坂和志の哲学的な随筆・小説を読みふけるようになった。そうして読み込んだ(「理解した」とは言わない)頭で村上春樹などの文学を振り返ってみると、また違う趣を感じる。

ぼくは発達障害者なので、関心をマニアックに深く深く掘り下げることに執心・執着するかと思いきや次の日にはまったく違うことを考えていたりもする。でも、そんなぼくでもいまのところは哲学との付き合いも続けられているようだ。これからもわからないなりに、読めるようなら東浩紀や千葉雅也や國分功一郎を読みふけるのかなと思う。

そうして哲学書に触れることが、このぼく自身の抱えている苦悩・憤悶を少しでも「軽く」するならとも思ってしまう。ぼく自身の中でわだかまっている謎や生きづらさの源泉にアプローチするために……だからある意味では、ぼくは客観的な知識体系を積み上げられるタマではない。主観的な思い込みに殉じて生きて、そして日々書きなぐる。

でも、そんな思い込みを極める哲学から何かをあなたに対して提供できたらとも思う。この歳になって、ぼくはようやく自分の抱える問題系が見えてきた。言葉とは何か。世界とは何か。人の心とは何か。そんなことを追い求め、考え続ける営みはどこまで行くのか。今日の午前中は趣を変えてル・クレジオ『物質的恍惚』を読んでみるかな。