アントワーヌを追いかけて

あるいは「日曜哲学」へのいざない

Never Mind The Distortion

ふと、たとえば「そういえば、言葉について片岡義男は『日本語の外へ』でどう語っていただろう」と考えたり、あるいは「また(何度読んでも歯が立たない本ではあるけれど)柄谷行人『探究Ⅰ』を読み返してみようか」と考えたりする。そして、それらの本について考え始める。ある意味、ぼくの考えはそうした先人たちの仕事の受け売りだ。

これはつまり、「すべては先人たちの模倣(コピー)から成り立つ」とかあるいは椹木野衣的な「サンプリング」「シミュレーショニズム」の戦略とか、そんな次元の話とつながるかなとか思い出す……と書き書き、ついここで「あ、まただ」と思ってしまう。こうして「椹木野衣」なんて固有名詞を出してしまうのも他人の考えから来たものだ。

つまり、ぼくがこうしてあれこれ「これがぼくのオリジナルな・ぼく個人の考えでござい」といって提示するものはそうした先人たちから伝承したものだ。いや、難しい話をしたいわけではない。ぼくがこうして提示する価値観は親や教師、クラスメイトといった人と交わってそうして形作られてきたものだというのと、ほぼ同じ意味の話になる。

ぼくの頭の中にある他者の考え。古井由吉やあるいは阿部昭の小説、田中小実昌のエッセイやウィトゲンシュタインが書き記した断章群。そうしたものにこれまでぼくは影響を受けてきた。その意味で、ぼくの中には実にいびつで混沌とした人力データベースがある。そこから生まれるノイズ混じりの随想をこうやってぼくは書き連ね続ける。

 

ぼくは、書くことのほぼすべてを山崎浩一というコラムニストから学んだ。彼の『危険な文章講座』は(いま手元にないのだけれど)まず何よりも20代の頃だったか、ぶくぶくに自意識を肥らせたぼくをして「書くこと」「実践すること」の大事さを教えてくれたのだった。思い出すに、「ゆがみ」について彼は語っていたのではなかったか。

どんなふうに書いても、そこに「個性」「個人性」がにじみ出る。ぼくが書くと、どう他人の考えをコピーしてもぼくなりの偏見や偏狭さがあぶり出される。「そして」、そんな個人の個人たるゆえんである「ゆがみ」こそがその人の書く文の真価なのだ、と山崎浩一は語っていたと記憶している。こう書いていて、また読み返したくなってきた。

それは必ずしも誰もが「奇抜な」「天才的な」ものを書けるということを意味するわけではないかもしれない。少なくともぼくは天才ではありえない。だが、それを踏まえてもぼくがこうして書き記すものがもたらす「ゆがみ」は、ぼく自身に内在する性格やぼくの嗜好といったものとつながる。少なくとも、こう書くことがらは素直に出てくる。

ぼくの書くものはいったいどこから出てくるのか、こうやって書いてみると面白い。脳から、ぼくが体得した知識から出てくるものが半分とあとはぼくの嗜好や特性、ぼくの中にある妄念や邪念といった「ゆがみ」がブレンドされ、そうして生まれ落ちるのだろう。そこにあなたの意見・リアクションが付与されることでさらに面白くなる。

僕はここにいる

単なる子どもじみた問いでしかないかなとも思うのだけれど、それでもぼくはときおり「ぼくって何だろう」と思ってしまう。この「ぼく」とは何者・何物なのか。問えば問うほど、ぼくは「ぼく」のことがわからなくなって途方に暮れる。ぼくがぼくであることを保証するアイデンティティとは何か、ぼくがこうして考える「ぼく」とは何か。

ぼくはしょせんはしがない「日曜哲学」を謳うトーシロの読者でしかない。なので、哲学を体系的に勉強したわけではまったくもってなくて、我流でサルトル『嘔吐』を読み実存哲学のイロハをかじるのが関の山だ。でも、そんなぼくなりに思うのはこうした「ぼくって何」という問いこそがぼくがこれから極めるアポリアかなということだ。

どうアプローチできるだろう。たとえば、ぼくはこうした問いを言語で考える。言葉によって概念を弄び、そこから論旨を組み立てあれこれ解明していく。別の言い方をすればぼくは言語という体系から抜けられない。それは柄谷行人『内省と遡行』やウィトゲンシュタイン論理哲学論考』が教えるとおりだ。意外と「ぼく」は不自由な存在だ。

あるいは、ぼくはこうして真面目にあれこれ書いていてもしょせんは肉欲・本能にコントロールされた存在であるという側面を否定できない。ひらたく言えば、ぼくだって汗をかくし心地よさをも感じる。その身体性を無視して、頭でっかちに理屈だけをこねくり回すことはどうしたって空理空論にしかたどり着かない。それもまた謎の1つだ。

 

ぼくとは何者・何物なのか。そんなことを考えて、昔はずいぶんぼくの「内面」「内側」ばかりを見つめたことがある。自分史・回想録みたいに自分が経験してきたことを整理して、そこから自分が何者であったのかを整理してみたいと思ったのだった。でもいまはもう少し違うことを考えている。ぼくの在り処を求めて外を見てみたい、と。

どういうことかというと、たとえば(エッチな話で申し訳ないが)外に出てそこでステキな女性を見かけた時にぼくの心は反応する。あるいは、美味しいものを食べた時にぼくの気持ちは満足する。そんな感じで、ぼくの心・精神は単体としてここにあるのではなく他者・他の物体との関わりにおいて成り立っていると考えてみたいのだった。

そう捉えていけば、ぼくとは決して孤立した、石のように堅い内面・精神を持ち合わせた人間存在ではなくステキな女性や美味しい料理(あるいはいい音楽やおいしい水)といったものに即座に・鋭敏に反応しいくらでもその様相を変化させる、フレキシブルなものであることがわかるだろう。そんなふうに外へ開かれた存在。それが「ぼく」だ。

ということが真実だとしたら、ぼくとはもっと開放されてしかるべき存在なのだ。ここにいる自分のアイデンティティ(自分が首尾一貫していること)をあまりクソ真面目に重視せず、どのようにでも変わってしまうはかない・柔軟な存在でありうること。それを認め、変わることを恐れないこと。どのように変わろうとも「ぼくはぼく」だ。

ハイウェイ

「大人になるってどういうことだろう?」と、自分に向かって問いかけてみる。でも、答えは出てこない。ということは、ぼくは「大人」の定義を言えないということかと思う。でも、「じゃ、ぼくは『大人』でなくてもいいんだ」と思おうとするとなんだか「いいのかなあ? そんなことで」という罪悪感にさいなまれる。実におかしな話だ。

ぼくは発達障害者であり、それゆえに子どもの頃から教師やクラスメイトから「そんなことでどうする」「真面目にやれ」と言われることもあった(おかしなことに、親からは特に口うるさく言われなかった)。ぼく自身、こんなぼくのことを認められず「自分はおかしな、狂った人間なのだ」と自意識過剰な悩みを抱えて右往左往したりした。

ぼくは1975年に生まれ、1989年に宮崎勤が起こしたあの事件をマスメディアの報道で知った。ぼく自身の中にも彼に似た特性があったので(あえて雑駁に言えば「オタク趣味」「コレクター気質」となろうか)、はしたなくも「自分の嗜好(具体的に言えば『アニメの美少女に惹かれること』など)は異常だ」と思い込み、真剣に悩んだ。

時は流れ……いまやそんな「アニメの美少女」のイメージはインターネット(オンライン)や街角(リアル)にあふれ返っていて、ぼく自身もなんだかんだあって宮崎勤がたどったような陥穽をなんとか回避していまに至れているみたいだ(そして、吉岡忍『M/世界の、憂鬱な先端』で宮崎の苦悩を知り、あらためてぼくはアホだと思った)。

 

そしていま、ぼくの部屋にある佐藤良明『ラバーソウルの弾みかた』のことを思い出す。佐藤良明はもちろん宮崎勤とは世代は違うけれど、佐藤自身もこの本の中で過去に「ピーターパン・シンドローム」(つまり「大人になりたくない」という思い)を抱えて、それに甘んじることもできず真剣に・真摯に苦悩したことを吐露している。

「大人」になる、なれない、なりたくない……なんだかサリンジャーキャッチャー・イン・ザ・ライライ麦畑でつかまえて)』なんかにも通じる苦悩だ。「定番」の苦悩とさえ言えるのかもしれない。そんな苦悩を抱えつつ佐藤良明は研究の道に進み、サリンジャーは傑作を記した。苦悩は決してムダに終わるとは限らない、ということか。

あるいは、子どものままの自分自身の問いやその問いを生み出す感性・感受性を保ったまま成熟・円熟することを選んだ人だっている。ぼくが知るさまざまな哲学者(永井均中島義道)といった人たちがそうかなと思う。世は多様性の時代。大人になるといってもいろんな回路がありうる。なら、ぼくがいま歩んでいる道はどんな道なのだろう。

20代・30代を思い出す。京アニ事件の青葉真司ではないけれど、ぼくも村上春樹の小説に人生を狂わされて生きた時期があったっけ。いや、どう狂わされようがそれでも「これが私の生きる道」という矜持だけは持ち続けたいと、40代になってようやく割り切る努力を始めていまに至る。人生、そう考えてみれば実に豊饒なものなのかなとも思う。

だいたいで、いいじゃない?

去年、ぼくは池澤夏樹の最初期の作品『スティル・ライフ』を読み返した。初めて読んだのはぼくが十代の頃だっただろうか。いまぼくはアラフィフで、つまり30年近く経って読み返したことになる。常識的に考えれば、十代の頃の方が新鮮・鮮烈な印象を感じられこの歳になるとそうした繊細さを失うと考えるものだろう。一般論ではそうだ。

でも、去年のその読書でぼくはこの『スティル・ライフ』の世界(というか「沼」)にもっとすんなりと入り込めたようなそんな気がした。あまりに深く突き刺さったので、「この小説は、もしかしてずっとぼくを待っていたのではないか(30年間も)」とさえ思われる。それだけでぼくにとっては村上春樹ポール・オースター級の名作だ。

ぼくは本を読むけれど、でも名作や傑作のたぐいを読むわけではない。過去に無理をして志賀直哉永井荷風を読んで、わかりもしないのに気取ってむなしい思いをしたことがあるのでそれ以来「自分の勘(ヤマカン)」に誘われるまま、関心があるものだけを追い求めて読み進めているのが実状だ。だからぜんぜん大したことない読者である。

でも、そんな感じで勘に誘われるまま生きても「無問題(ノープロブレム)」ではないかなとも思う。居直り、と言われればそれまで。もっと「時の洗礼」に耐えた、それこそスタンダールバルザックでも読みなさいということになるかもしれない(ぼくだって40を越えて、おっかなびっくりドストエフスキーを読んだりしているのだが)。

 

勘を信じ、偶然に身を委ね、流れに身を任せる。思い通りにならないことをあきらめ、思い通りになることを極めようとする。もちろん、そんなにすべてうまくいくわけないのでまたそこで「行き当たりばったり」「だいたい」で生きてみる。そうすると、たまにそんな感じで『スティル・ライフ』との再会みたいなこともありうるのだった。

もちろん、そうした勘が養われるようになるにはコストだってかかる。また、そうしたコストを払って経験を身に着けたとしてもしくじる時はしくじる。これはギャンブル(賭け事)と同じで、時には完全に「ツキ」に見放されたような孤独で理不尽な思いに襲われることだってあろう。でも、そうした時も人を育てうるとぼくは信じる。

スティル・ライフ』との出会い直しで、たとえば池澤夏樹が込めたさまざまな印象的なフレーズが「突き刺さる」のを感じ、そして必ずしも「スジ」の面白さだけが作品のキモではないのだという当たり前のことが身に沁みた。そこに至るまでには加齢による肉体の衰えと精神の円熟(手前味噌だけど)もあったわけで、それが「変化」だ。

そんな「変化」を経験し、そして少しずつぼくはぼくが目指す人間像へと近づいていく……と書けばカッコいいが実態はどうだろうか。いまだにぼくは過去の名作群を読めず、マルケスリョサもロクに知らないままだ。完全になることをあきらめて、ぼくなりの日進月歩の進歩を目指し右往左往する。そんな感じでぼくは50になるのだろう。

あなたがここにいてほしい

今日は遅番勤務の日なので、朝は時間が空くかもしれない。何か本を読むことを考え、薄い本をカバンに忍ばせることにする。三木那由他『言葉の展望台』をまた読み返すか、それとも多和田葉子『言葉と歩く日記』にするか……と考えていて、ふと両者に「言葉」という言葉がタイトルとして含まれていることに気づいてしまう。

もちろんこれは今朝、「たまたま」そんな似たようなテーマの本を思いついたというそれだけのことだ。だけどその符合から、ぼくはそうやって「言葉」についてあれこれこれまでも自分なりに・徒手空拳で考えてきたのだということを思い出す。ある時はウィトゲンシュタインをかじったりして、コミュニケーションについて考えてきたのだと。

ヘンな話だ。過去、ぼくはそんなふうに言葉についてわざわざ考えることにある種迂遠さ(別の言い方をすれば「もったいぶった態度」)を感じてきたのではなかったか。こうして書く言葉があなたに通じて、そこに根拠があるかないかなんてわざわざ問い詰めなくても何ら問題はない。なまじ厳密さを追い求めるからドツボにはまるのだ。

でも、「いま」ぼくはそんなふうにして考え抜くこと・問い詰めることをやめられない。「言葉がなぜ通じるのかを言葉を使って問う」というのも妙な話なのだけれど、ともあれぼくはそうしたことがらについていつしか考え始める腹をくくって、そして哲学や英語を学んだりし始めてきた。これからもこういうことを続けるのだろうと思う。

 

あるいは、ぼくがこんなふうに言葉についてあれこれ考えることの原因・モチベーションはたぶんぼくが(49にもなって「キモい」とも思うけど)「寂しがり屋」の「ロマンチスト」だからなのかなとも思う。それこそウィトゲンシュタインを引くまでもなく、言葉というものはどうしたってその言葉が宛てられる誰かがいることを前提とする。

つまり、「あなた」がそこにいるからぼくがこうして書いていく言葉は意味を持つのだ、ということになるだろうか。ぼくがぼくだけに書く言葉で済むなら落書きでもなんでもいいわけで、「あなた」とシェアできる何かを表現しようとするとそれは公共で了解できるコード・要素を備えた言葉を用いることになってしまう。それでいい。

ぼくは子どもの頃、発達障害ということもあってつらい思いをしたのでそれゆえに「いまなお」友だちを作りたいとか、もっとひどくなると誰かと肌を合わせたいとかそんな欲望・依存心にさいなまれることを告白する。ぼく自身のことをもっとわかってほしいと思い、あまつさえこのぼくを押し付けがましく理解させたいとも思うこともある。

それはある意味では「承認欲求」を丸出しにするということで、ひどく恥ずかしいことだ……という見方もわかる。わかるのだけれど、でも人は1人ぼっちなまま「完全体」を気取ることもできないという理屈の側にも立ちたい。そうしたどっちつかずな状態の「あいだ」をさまよいつつ、今日もぼくはそうした言葉に関する本を読んで学ぶ。

小さな「確実性の問題」

自分自身を作り上げる嗜好(テイスト)とは何だろう……いま、ぼくはピーター・ガブリエルのアルバム『i/o』を聴きながらこの文を書いている。実を言うとピーター・ガブリエルを聴くようになったのはそんなに昔からではなく、はっきり覚えていないのだけど40代を過ぎてから。その年頃から彼の曲が「沁みる」ようになってきたのだった。

過去の自分についてそうやって振り返り……そしてまったくいまと違うことをやったり考えたりしていたことを思い出す。具体的に言えば、20代そこそこの頃のぼくはいまとは違って柄谷行人なんて目もくれず(「読んでもぼくなんかにわかるわけがない」と思い込んで敬遠していたのだった)、ただひたすら酒に溺れて時間を潰していたっけ。

「いま・ここ」にいる自分は過去の自分の延長線上にある。過去に為してきたことが「いま・ここ」の自分を作る。たとえば20代・30代、せっせとぼくは作家を目指して村上春樹金井美恵子保坂和志を読み込んで自分なりに「文学修業」してきたつもりだった。そうして読み込んできた本たちはいまの自分の価値観を作っているはずだ。

でも、そんな自分を裏切ってしまうこともある。たとえば、いままで「食わず嫌い」だった本を読んでみようか、なんて。過去、若かった頃のぼくはピーター・ガブリエル柄谷行人は「食わず嫌い」だった。でも、どこかでパクっと食べてみて美味しかったから味わうようになったのだった。誰にでもあることだろうけれど、思えば不思議だ。

 

いま、こうして文を書いていてぼくの中でも考えがいろいろ湧き出て、そのアイデアに突き動かされてコロコロ書きたいことが変わっていくのがわかる。いまだって吉田健一について考えたりニーチェについて考えたりしつつ、「ああでもないこうでもない」とぼくなりに苦吟しながら考えたことを書きなぐっている。タイプし、それを読む。

自分で書いたものを読み返し、そしてそこに書きつけられた過去の文から真っ先に刺激を受ける。難しく言えば「フィードバック」ということになる。そうして得た刺激がまさにこの「いま・ここ」の自分を変えていく。その自分は次の瞬間何を考えているだろう。わからないけれど、そうして変わりゆくことは可能性ではなかろうかとも思う。

いや、時にはそうして強引に自分自身を変えられ、傷つけられてしまうことはトラウマ(心的外傷)にもなる。身近な例では「ミスをして上司に叱責された」ということが思い浮かぶ。でも、そうして変わってしまう自分、摩擦によって磨かれていく自分を恐れてはいけないのだろうとも思う。原石が宝石になるように、1人の人として完成する。

今日はどうしようか……何度読んでも理解できなかった柄谷行人『内省と遡行』をまたかじってみようか。そうして読むことで得られたひらめき・着想はいったいぼくに何を教えるだろう。わからない。でも、自分に向かって『500ページの夢の束』という映画のセリフを言い聞かせる。「未知は克服するためにある」のだ、と。

日曜哲学宣言

いったい自分は何を考えているんだろう? ふと自分自身にそう問いかけてみる。こうしたことを自分に問いかけるのはそうめずらしいことではない。なんだかんだでぼくはいまもX(元Twitter)やFacebookを使っているのだけれど、そこでこうした問いに答えて「思っていること」「自分の見解」を書きつける機会をぼくは得られている。

でも、その「思っていること」はほんとうにぼくが「思っていること」なんだろうか……なんだか禅問答みたいだけど、たとえば(3割程度も理解できていないにせよ)テオドール・アドルノ『ミニマ・モラリア』をぼくなりにかじっていると、アドルノのようなリアリストは「それは『思わされていること』かもしれないよ」と示唆している。

あるいは、ぼくにとって端的に「カンフル剤(劇薬)」である1冊の坂本龍一後藤繁雄『skmt 坂本龍一とは誰か』を読んでいるとそこに坂本が自分自身について、自分が明日どう考えているかわからないアモルファスな存在であることを語っている。ゆえにそうした「一貫性」から解放されたい、とも。その意見もぼくにとっては刺激的だ。

両者をつなげると、「ぼくが(こうして)考えていること」は「ぼく固有のもの」というより「どこかから授けられたもの」でありうること、あるいは「どこかへ逃げていくかもしれないもの」ということかもしれない。どちらにせよ、ぼくにはコントロールできないことであって、ならばその謎めいたぼく自身をどうしたらいいんだろうか。

 

わからない。これに関してはこれからもヒマを見つけてはネチネチと考えていくしかないのだろう。これまでもぼくはこんなことをネチネチ考えてきた。その成果をこれまでぼくはズボンのポケットに入れているメモパッドに書きつけてきたのだけれど、昨日ふと思いつきで「こうしたことをもっとブログでも書き残せないか」と思い始めた。

こうしたことがらをどう名付けたらいいんだろうかと思い、これもまたネチネチ考える。そして、「日曜哲学」という言葉を思いついた。「日曜大工」、つまり週末の空いた時間に大工仕事に勤しむ人にあやかって「日曜哲学」という、あくまでぼくなりに(「お遊戯」の域を出ないにしろ)楽しむ「哲学的営為」を始めようか、と。

もちろん、「こんなことをやっていったい何になるんだろう」とさすがに(ノーテンキなぼくとて)思わなくもない。でも、それでも「まあ、メモパッドの中に閉じ込めておくのももったいないかな」とも思い始めたのだった。なぜ坂本龍一の曲の中に封じ込められたメロディがぼくの感情・気分に訴えかけるのか。それだって「日曜哲学」だ。

考えついたのはいいけれど、今日は月曜日なのだった。なのでとりあえず次の日曜日に時間と気力があれば、さしあたっていまこうして書きなぐっているアイデアについて「振り返る」ことを始めたいなと思う。自分でも「コントロールできない」「謎めいたぼく自身」はいったい次の瞬間何を考えつくのか。日曜日にそれを考察できる、かな?